昭和32年卒 吉原 勇
昨年文化勲章を受賞された奥田小由女さんはこの5月、日展理事長を退かれ顧問に就任された。不祥事をきっかけに理事長に就任されて4期8年。見事に日展を再興され、まさに女傑と言ってもいい方である。その奥田さんと私の縁は私の高校1年の時まで遡る。
私は昭和29年(1954)4月、日彰館高校に入学した。クラブ活動として選んだのが文芸部と音楽部だった。その2学期の初めごろだった。文芸部顧問の森永泰輔先生が「3年生中心に文化祭で木下順二の『夕鶴』をやることになった。手伝える人は協力して欲しい」と言われた。音楽部顧問の佐々木瑞枝先生からも「手伝ってあげて」と言われた。学校を挙げて取り組もうとしているのが分かった。
最初の打ち合わせ会に出てみると、最前列に主役の「おつう」を演じる川井小由女さん、いまの奥田さんが座っておられた。子役を務める位藤義寛校長の子供さんもいた。森永先生は打ち合わせの最後に「実はこの芝居はセリフだけでは寂しい。合間に流すバックグランドミュージックがほしい。この劇にふさわしい曲がないか、みんなの家にあるレコードを持って来てほしい」と頭を下げられた。鶴の恩返しを主題にした「夕鶴」は昭和24年に発表された戯曲で、山本安英の好演もあり大評判になっていた。今では団伊玖磨作曲のメロディーがつきものだが当時はまだ決まったものはなかった。
そこで私は自宅にあったレコードのうちクラシック2、3枚と「春の海」など宮城道雄の箏曲3、4枚を持参した。全部で14、5枚集まったレコードを順番に聞いていた森永先生は、宮城道雄の「瀬音」を耳にした途端「これだ。この曲がぴったりだ」と「瀬音」を選ばれだ。川のせせらぎをイメージして作られた曲である。そして「君の家のレコードだから君が音響の責任者になれ」と大役を仰せつかった。先生は「このセリフの後には『瀬音』のこのメロディー、このセリフの後はこの部分と次々決めていかれる。今ならテープを使って簡単にできるが、当時はそうはいかない。必要なときにメロディーが刻まれたところにレコード針を落とさなくてはならない。SP盤だからよく見るとメロディーによって波形が変わっているのが分かった。それを頼りに作業することにした。
稽古は時に遅くまで行われ、一度午後7時を過ぎたことがあった。すると「与ひょう」役の暮坪耕三さんが「疲れているし、これから津田まで帰るのは大変だから俺は丸田の叔父さんの家に泊まる。君も一緒に泊まれ」と丸田に連れて行かれた。暮坪さんは私と同じ世羅郡下津田の人だった。そして暮坪さんの叔父さんというのは、当時日彰館の事務を統括され、のちに同窓会の事務局長を勤められた木原恵さんだった。木原家で戴いた朝食の漬物のおいしかったことが忘れられない。
娯楽が少なかった時代ということもあり、11月はじめの文化祭当日は大勢の観客がやってきた。講堂は立錐の余地もなく超満員で観客が外にあふれていた。それでも川井小由女さんたち役者の声はよく通り、楽屋の裏にもはっきり聞こえた。森永先生は蓄音機を回し続けている筆者の横に立ち、音楽の出番になると「ハイッ」「ハイッ」と合図される。盤面をみつめながら、間違えないよう必死に作業していると、2時間たらずの劇は終わった。
今から振り返っても劇中に音楽を流すという発想は素晴らしいし、「瀬音」もよく合っていた。山本安英ばりに演じた川井小由女さんはその日から町中の人気者になった。しかし私は小由女さんの舞台姿を一度も見ることができなかった。ただ澄んだ声だけが耳に残っている。68年前の思い出である。
数年前、日展の作家たちに「小由女先生は高校のとき、夕鶴のおつうを演じられたんですよ」と紹介すると「先生はやはりその頃からすごい方だったんですね」とみんな納得顔だった。
2022年10月18日 記